自分史追録 ご縁を大切に恩を忘れず

(長谷川昭次郎さんの投稿)
私は在職中に数部局に異動し、皆様に大変お世話になりました。そのご縁とご厚情によって今日まで長命で来られたのだと思い、ここにあらためて厚くお礼を申しあげます。また、故人になられた方々には追悼して、心からご冥福をお祈り申しあげます。

 

「想い出の記 自分史追録」令和3年9月1日  長谷川昭次郎
ご縁を大事にし、恩を忘れわないと、いつか運がついてくる
この言葉は、何気なく見た雑誌で強く印象に残り、自分に向かって言われているように思えたのである。
大阪大学に就職して、大学事務の他に財団法人設立等の仕事も手伝い、それらのことから多くの方々との出会いと縁によって、私の人生に明るく楽しい運が訪れて来てくれたことが誠に有難く、この記事を書くことにしました。
私が大阪大学に就職できたのは、まさに奇縁であり人様のお陰げであった。終戦の昭和20年9月初旬復員してぶらぶらしていたところ、家の向かいにあった水道事務所の役員の方が、「君も予科練くずれか?私の息子も同様で阪大に就職させたので、君もよかったら世話してあげるよ」と声をかけ勧めてくださった。
そして翌日、大阪大学理学部内にあった本部庶務課に行き、野村庶務掛長さんの面接を受け、即日採用28日からの出勤を言い渡された。
(後で聞くとこの時お世話になった方は、小学校の校長を辞めて庶務課の事務嘱託として、辞令・学位記・総長の祝辞等を書いておられたことを知って驚いたのである)
その当時は終戦直後で失業者が巷に溢れていたのに、就職が早く決まったので親戚に挨拶に行くと,よくまあそんな良いところに就職できたね?と喜んでもらえたが、大伯母からは「あんたはやんちゃで気ままで、しかも勝手に兵隊を志願するなんて!せっかく長谷川家の養子にしたのに、ご先祖様に申し訳ないと母ちゃんが泣いていたよ」と叱られ、これからは大阪大学で一生ご奉公するつもりで勤めなさい!」と、喜ばれ叱られ励まされて深く肝に銘じたのである。
初出勤の日、野村庶務掛長から「雇ヲ命ス」」の辞令を受け、内藤庶務課長に挨拶し部屋に戻って課員の皆さんに紹介されて、秘書係に机が与えられた。
係には池田(正)主任、池田(博)書記、小林事務嘱託、馬淵雇員がおられて、仕事は上司先輩の指示で完結書類を、文書規程に基づいて仕分け編綴することであった。
人事の秘密書類が多く書棚には、学部研究所教授等の履歴書も収納してあるので、書類の扱いも例規し・任免・給与・叙位叙勲・恩給等に区分し、保存年限を記して冊子に綴り、年度末にはこれらを製本しなければならないので、間違わないよう気の張り詰めで当分は気疲れが取れなかった。しかしその書類整理をすることで、仕事の内容手順を自分自身で勉強することを教わったのである。
1月ほど後に辻本さんが入ってこられ、また川崎さん山野さんも続くようにして入られて、両池田さんの指導と課員の皆さんに親しくしていただいた。また当時の想い出は,(千石会30周年記念の時に「阪大に就職した当時の想い出の記」として投稿)
1年ほどして私にも文部省や各部局との往復文書、事務嘱託・雇用人の任免書類の起案が任されたが、その以前に終戦当時進駐軍の命令で 憲法を始め政令省令等の諸規定の改廃があり、教育制度、公務員制度、給与、年金制度と大きく変わり、それに伴い文部省からの指示で調査や報告書類の作成が頻繁となり大忙しで、私も手伝うことになって残業も多くなり、その書類を持って夜行列車で先輩と文部省への出張が度々あった。
やっと落ち着いた23年3月に文部事務官3級(旧書記)に任命されたので、張り合いが出て仕事にも慣れて楽しくなってきた。
ところが,若く元気で疲れ知らず、昼休みにはキャッチボール、有志でハイキング・海水浴、「さつき会」をつくって歌舞伎観劇、温泉旅行の世話、各課に呼びかけて阪大本部野球部を結成して部局との試合、夏は盆踊りの徹夜踊りなど、気楽に遊び回り瞬く間に月日が経ち、健康を考えずに不摂生が続いていた。そしてついに天罰がくだって、風邪を引き阪大病院で治療を受けながらも十分な休養を怠ったので、結核に罹り長期療養をすることになった。
適地として泉南の砂川療養所を選び、入所申込みに行くと希望者が多いので最低3月待ちだと言われ、それまで阪大石橋分院でお世話になることにした。ところが一週間もたたずに病室が空いたので直ぐに入所せよと連絡があり、あまりの速さに吃驚、これも山下庶務課長が今村総長(結核病の権威)に紹介状を頼んでくださり、添えて申し込んだ効果が出たのだと大慌てで準備する。移動には総長運転手の豊田さんが車の手配、川崎さんまでが同行してくださって、早急に入所ができて誠に有難いことであった。
36年8月入所したこの療養所は、なんと内科・外科ともに阪大医学部出身の医師であったことに二度吃驚、直ぐ親しくしてもらえ胸郭成形手術をする前に、他人の手術を見学したいと願い出て、準備室の小窓から手術の全てを見て納得し決心がついた。
幸いに手術の経過が良く落ち着いた頃に、なぜここに来たのか2回目は阪大病院でしてもらいなさい。そのほうが大学病院は投薬は潤沢、学用患者にしてもらえば新薬も使ってくれると教えられ、転院手続きまでしてもらつて石橋分院に戻り、再びご厄介になり闘病生活を続けたのである。
休職期間を入れて4年が経って28年10月復職の挨拶に行くと、田中庶務課長や課の皆さんが温かくかく迎えてくださり、配置が変わって池田(正)庶務掛長の下で降格にもならず元の職責で扱ってもらえたので感激した。(この当時の想い出は、「千石会創立40周年記念誌の中に投稿)
この頃、病院の掛長さん達が謡曲の会をつくって本部にも誘いがあり、池田庶務掛長と会計の辻掛長とで初めて謡曲を習い、大阪能楽堂で発表するなど稽古を続けた。
またこの頃は、30歳近くの病み上がりで結婚を諦めていたところ、上司から病歴を承知で紹介されて結婚し、一姫二太郎に恵まれた生活ができて有難いことであった。
31年4月 一般教養部北校の庶務掛長兼教務掛長として異動する。(この当時の想い出は、「教務事務におけるエピソード」として今年の5月28日のブログに投稿)
33年4月 蛋白質研究所に異動する。この研究所は元理学部付属の研究所が昇格して、全国共同利用の研究所として新設されたものである。ただし建物は旧館のままを使用されたので、3研究部門と事務室が入ると手狭であり、新館の建設計画・予算要求が既に進められていた。
理学部から赤堀所長が、3部門の教授助教授教官達は理学部・医学部から、事務室は本部会計課から横山事務長、掛長には庶務は私が北校から・会計は会計課から北口さんが,そして掛員は庶務課・会計課からの異動と、新規採者等12名であった。
36年5月念願の新館(4階建て4千坪強)が完成。研究部も8部門になり教授助教授教官も学内外から招へいされ、大学院生・研究生・共同研究者等で4倍強に人が増えたまた7月には学内外の関係者を招待して、新館披露祝賀会が盛大に行われた。
それに伴い事務室も資料室や建物・設備の管理業務等が加わって20数名に増えた。新設当時、事務長のたっての指名で庶務課からこられた川崎さんは、新館ができてさらに多くの女性職員の指導相談相手、若い男性の良きお姉さん、研究室女性達との交流など手腕を発揮されて、事務長の期待に応えられ私も大変助けてもらった。(この頃、筒井事務長、岡野会計掛長に交替)
共同研究所であるため、教授会の他に各大学からの学識経験者による運営委員会が東京であると、その都度関係書類を作って赤堀所長と事務長、私は書類持ち随行した
新館完成で研究所もほぼ充実したので、かねて赤堀所長が構想されていた蛋白質の重要性から、研究助成の財団設立に力を入れられることになり、事務長と私がお手伝いすることになった。そして寄付行為・財団設立書類等の作成を始めた。
財団設立には多額の寄付金が必要なので、企業からの寄付をお願いすため資料を持って、大阪では関西電力・武田薬品工業等の製薬会社。東京では味の素・協和発酵等の関係会社に、所長ご自身が行かれる時は、事務長と私も書類持ちで随行した。
それぞれの会社の会長(社長)に面会される席に私も陪席したが、所長の温厚誠実で熱心に話される姿に、先様も魅せられるがごとく即座に賛同と協力を約束してくださった。私も初めて所長の真の人柄を見て深く感銘を受けたのである。
主な会社の協力を得たところで、初期段階として任意団体の蛋白質研究奨励会を設立し、会長に関西電力会長をお願いして、基本金、運用資金の寄付依頼を正式書面で関連会社に出した。また多少寄付金が集まったところで、差し当たり奨励金の支給の他に共同研究員宿舎を、真島元総長の旧宅を借りてこれに充て運営されることになった
そのうちに予定した寄付金が集まったので、財団設立の準備が整い設立関係書類全てを持って文部省研究助成課に提出。書類の説明や差し替えなど度々呼び出されたが37年4月に財団法人蛋白質研究奨励会が認可され、事務所が蛋白質研究所内に置かれたので、私は引き続きその事務を担当することになった。
38年10月 歯学部庶務掛長として異動する。
(9月本部から歯学部異動の内示がある。この時すでに10月初旬に北海道大学で研究所事務協議会開催の予定があって、またとない事務長と出張ができると楽しみにしていた私は、出張がだめになったと残念至極でしょげてしまった。筒井事務長は気の毒に思ってくださって、蛋白研創設以来のことを考慮して、歯学部事務長と本部にも事情を話され、辞令は受けるが出勤は一週間伸ばしてもらうことになった。そして会議が終わると事務長と微研の上坂掛長と3人で、北海道内を周遊できて有難かった。)
歯学部でも、山本歯学部長が親戚にあたる方との話から、万有製薬の株券を資金にして奨学金を支給したいとの話がでた。誠に結構なことだと辰巳事務長が賛成されて私も財団創立の経験があるので手伝うことになった。
ところが、株券を基金に配当金を運営資金に充てることはどうか?難問だなと思いながら,とにかく財団設立申請書を作成して文部省大学課に提出した。一見した係官は「株を資金にするなど前代未聞、それに阪大の歯学部学生がけに支給とは無理」とけんもほろろに突き返された。事務長もそれはそうだろうと言われ苦慮される。ところが幸いなことに事務長は株式投資に精通されていたので、万有製薬は稀にみる優秀企業であり、毎年増資があり資金が増える。それに配当も他社に比べて高額なので、奨学金の支給には何ら懸念がないことを、統計上から十分説明のつく資料を作り、また奨学金の支給対象も全国に広げることにしたと、事務長から熱心に説明してもらったので、係官も納得して受理してくれた。
そうして40年4月財団法人岩垂育英会が創立されて、毎年数名の歯学生が奨学金を受けることになった。育英会の事務所が歯学部内に置かれまた私が担当した。
41年4月 事務局庶務課に文書掛長で異動する。当時は田中事務局長、池田(正)庶務課長、辻本法規掛長、学術掛に山野さん、少し後で池田(博)課長補佐も戻ってこられる。また以前お世話になった方々もおられて、10年ぶりの古巣に帰り嬉しかった。
また各部局が石橋地区と千里地区の二か所に統合されることを見越して、石橋地区図書館内に庶務課の分室を置かれることになり、その責任者としてベテランの川崎さんが呼び戻される。そして本部との書類の中継、入学試験本部が図書館内に置かれた時の世話、また出先機関として各課の機能的な拠点ともなって、手広く世話をされていた。
それから43年5月から44年12月にかけて、本学でも最も苦難な大学紛争に巻き込まれたのである。(これら紛争のことは平成9年2月の阪大千石会ブログに投稿)
その後徐々に落ち着きを取り戻す。私は教務掛、学術掛と異動して46年4月庶務課長補佐になって慣れた頃。藤森庶務部長から将来を考えて、人事交流で他大学への転任の話をくださって有難かった。しかし私はよく考え環境の違う他大学に、学歴も無く病歴のある私が行っては、かえって先方の迷惑になると思い事情を説明して辞退した
数年経った頃。赤堀先生が総長時代に東京八王子に設立されていた、大学セミナーハウスに興味を持たれてその成果が良かったことから、関西地区にも大学セミナーハウスの設立を計画された。また大学紛争の一端も担任教官と学生の間に、心の交流が疎遠であることを痛感されて、寝食を共にして語り合える場を早く建設したいと急がれた。
近畿地区の国立大学長に働きかけてその準備委員会を設立し、委員長に赤堀先生がなられた。そして私が手伝いを仰せつかったので、これでまたご縁が続いた。
セミナーハウスの基金は近畿地区の国立大学から応分に拠出を決められ、建設地については六甲山の景勝地が相応しいことから、神戸大学に適地を依頼されたがその周辺は風致地区が多く農林省から拒否される。困り果てていたところ蛋白研の泉教授から、三田市道場丘陵地が借用できると朗報を持ち込まれたので、早速下見の上で納得されてこれで建設場所が決まる。
後は建設資金集めである。このハウスは運用資金がかなり必要なことから、会社の社員研修にも利用できるように考えられて、広く企業から寄付金を集められる。主として関西の大企業に寄付依頼に行かれる時は、関係書類を持ってお供をしながら蛋白質研究奨励会設立当時の会社回りが懐かしく思い出されたのである。
そうこうしている間に、資金の目途がたち建築計画も整ったので、財団法人関西地区大学セミナーハウス設立関係申請書類を作り、床井事務局長に随行して文部省学生課に提出した。幸いなことに担当課の課長補佐に、元大阪大学の小岩井学生課長がおられたので話が早く進み受理してもらえ、早急に手続すると約束までしてもらえた。
財団設立の認可を待っている間に、事務局の小会議室を設立準備室にして、京都工芸繊維大学を退職された中山前事務局長と専従職員2名が仕事を始めておられたので、全てを引継ぐことができ肩の荷を下したのである。
52年4月 工学部教務課長として異動した時も、48年から醗酵工学科で始めていたユネスコ微生物国際大学院研修講座を、53年4月から微生物工学国際交流センターに設立替えする手伝いをすることになり、関係書類を作り田口教授に随行して文部省留学生課に行った。今回は研修講座の実績から思いもよらず早く認可が下りた。
それから研修留学生の宿舎確保、空港での出迎え等を手伝った。醗酵工学会館での開校式では、東南アジアの国から集まった溌溂とした研修生を見て、国際的な研修講座に深く感銘を受けたのである。
52年10月20日 赤堀先生が喜寿をお迎えになり、その記念に文鎮を造って関係者に贈られた時、私にまで頂戴して誠に有難いことであった。
(この文鎮は大事にしていたが、孫娘が化学に専念したいと横浜国立大学理工学部化学科に入学した折に、お祝いとして贈り「文化勲章を受賞された立派な先生の文鎮だから、お守りにしなさい」とい添えた。それが今年卒業して京セラの研究開発本部に就職した。これは本人の努力は勿論だがこの文鎮のお陰でもあると私は感激した。そして「ご縁があるからこれからも大事にしていると、きっと良い運がまた訪れるよ」と言い聞かせると、本人も納得して大きく頷いてくれた)
54年4月 大型計算機センター事務長として異動する。このセンターは全国共同利用施設として、東大・京大・北大に日立製、九大・名大に富士通製 、阪大・東北大に日本電気製の汎用大型計算機を設置して、より一層の研究開発をすることと、地域の各大学に利用の便宜を図ることであった。
また就任した頃は、5月19日に創立10周年記念行事として、祝賀会と新機種の発表披露が予定されて大忙しの時であったが、根来前事務長が大半準備を済ませておられたので助かり有難かった。
センター長は高木基礎工学部教授(次は関工学部教授と交替)、研究開発部は工学部の兼任助教授・他に教官は数名。事務室は楠本庶務・中谷会計・岩国共同利用・中島業務・青井システム管理の5掛長他20数名で、いずれもベテラン揃い。計算機には全く素人の私はセンター運営に伴うセンター持ち回りの連絡会議、学内での運営委員会、入出力棟増設、新機種の増設入れ替え等の予算要求や利用者へのサービス向上等には、各掛長や掛員にほとんど世話を掛けるばかりで、瞬く間に月日が経った。
このセンター在職中は大型計算機のみに関心であったのが、その後世情が大きく変わって半導体の革新的な発達によって、コンピューターが出現し、またスマートフォンも普及し、全ての通信情報・辞典にもなって、今では手放せない無二の伴になっている。
またこの職場では、職場結婚の工学部職員とセンター職員二組の仲人,一組の媒酌人を務めさせてもらえて、以前私が上司の仲人で結婚したことを思い出し、そのご恩返しができたと喜んだのである。
58年4月 言語文化部事務長に異動し、最後は50年11月に経済学部事務長に異動して、皆さんのお陰で62年3月大過なく元気で定年退職することができた。
退職するに際して公私ともにお世話になった各職場の皆さんに、何らかの形で感謝の気持ち表したいと思っていたので、厚かましく自分勝手ではあったが「40年の歩み展」を会議室を借りて開かせてもらった。
皆さんと一緒に撮った写真約二百数十枚を、各職場別に壁に貼りつけ「皆様には在職中は大変お世話になりまして有難うございました」と表意。机を並べて在職中の出来事スクラップ、資料類、各部局で貰った行事の記念品。それに加えて私的には辞令・永年表彰状類、趣味であった野球のユニフォーム・川池海釣りの道具一式・ハイキング登山のコッヘルステッキ類・謡曲本・御陵霊場巡りの朱印帳・出張旅行で集めた地方人形玩具類、最近の家族の写真まで、何もかも私の裏の姿を見てもらった。室内にはシルクロードの曲を静かに流して、気分を和らげて見物してもらうことにした。
お世話になった部局の方に一応連絡して、千里地区からもお忙しい中を来てくださった方もあって、誠に有難いことであり、これで私も半生の区切がついたのである。
また有志の方々で盛大な送別会をしてくださったことを、厚く御礼申し上げます。
ところが再び縁が訪れ、以前大変お世話になった筒井さんから、蛋白質研究奨励会に就職の話をくださり、退職翌日から出勤という誠に有難いことになった。
奨励会新館は箕面市稲に在って、建物の横には懐かしい銀杏が植えられていた。
そして建物の中に(株)ペプチド研究所も同居していた。
奨励会の理事長は赤堀先生(次は鈴木先生に交替)、常務理事が倉橋先生の全てが蛋白研元所長で阪大名誉教授。事務は私が主事、資料室に職員数名。私は財団事務の他に会社の名目監査役で金庫番でもあった。そして(株)ペプチド研究所は榊原会長が蛋白研から、また研究社員は大半が理学部出身者であって、事務室には社長と一般社員の数名で、女子社員が多いので明るく家庭的であった。 奨励会の役員会が一月後に開かれるので、前任者の三隅さんがその準備に残られ、会計に不慣れな私に事務処理の指導と助けてくださった。
そのうちに会社の事業が拡充されて向かいに新館が建設、事務室が残りペプチド合成事業部門が移った。その空き部屋に奨励会の研究所が新設されて、芝名誉教授(理)が所長として研究員を連れて着任される。資料室も広がり職員も増えてきた。(会社はその後業績を伸ばし規模も拡大したので、平成16年茨木市彩都に移転した)
私も数年すると仕事にも慣れて余裕がでた。そこで退職前に奨励会のお役に立つものをと考え、今まで奨励会職員は会社の就業規則等を利用されていたのを、職員増加に伴い独自の就業規則、給与・退職金・出張費等の諸規定を制定することを考えた。
奨励会の運用資産はこの会社の援助によるところが大きいので、一部は別としてあまり格差のない内容に立案して、職員会議で了解を取り、役員会に諮った上で制定。それを淀川労働基準監督署に届け出た。
また一方で私が阪大に就職した時、文部省編纂の「大学事務提要」を参考に仕事をしたことを思い出して、後任の方の参考に手引書を作成することを考えた。複式簿記による帳票の扱い、理事会に出す決算書類の作り方等、また会社の業務内容、資料室の作業内容、できるだけ多くの資料を集めて、事前に倉橋常務理事や筒井さん三隅さんにも見てもらって「奨励会事務提要」として仕上げることができて、良き置き土産ができた。
また私が奨励会の創設からご縁が続いていたので、送別会を開いてくださると聞いたので、奨励会と会社の発展を祝した歌(河内音頭の替え歌、別記)を作り、送別会を盛り上げて賑やかに楽しくお別れをさせてもらった。
なお後任には、蛋白研にも在籍されていた村上さんが来てくださったので、安心して事務の引継ぎもできたのである。
【ご縁の追記】
驚き驚き、こんな奇跡奇縁があるのかと思われることがあった。
わが家のご先祖の本骨は、大阪市四天王寺近くの一心寺に納めてあり、毎年春秋の彼岸には必ずお参りして回向をしてもらっていた。
平成23年頃であったか、一心寺さんで納骨堂の玉垣を改修されることになり寄付を集められた時寄進し、その披露の時にお参りすると何と私の名前の横に,岩國健一さんが並んで立っていたので、あまりの奇跡奇縁に吃驚早速連絡して、その奇跡に感動し談笑したのです。
岩國さんとは森田さん達と庶務課教務掛で大学入学試験を、庶務課の皆さんの応援を得て実施した想い出が深く、特に大学紛争中の苦労を共にしたことが懐かしい。また大型計算機センターや経済学部でもご一緒して大変お世話になった。その上に今回は一心寺さんでまた一緒になるとは、誠に不思議なご縁が続くものだと感じ入っている。
【あとがき】
以前、定年退職当時は自分史を書くことを勧められたが、興味はあっても書くほどのものがないので見過ごしていた。ところが孫が増え子供達が私のことに興味を持ち始めるだろうと思ったので、意を決して書いてみることにした。物心がついてから就職するまでを第一部、阪大在職中のことを第二部、結婚から家族との生活など第三部に分けて書き始めるとこれは大変なことであった。
写真を見ながら過去を想い出して書き始めたが、書いては手直しの連続で書き終えるのに3年もかかってしまった。しかし今回の追録を加えてほぼ満足な自分史ができ上がったと思ってっいる。
また一方、文学部教授のご紹介で、尼崎市地域資料館や市役所・寺院等で調べて作成した、長谷川家の家系譜(宗門人別改帳・除籍謄本・過去帳・系図・関係書類)
それに自分史写真集、エッセイ・エピソード・詩・短歌などの諸文書を加え、USBメモリーに収録して、「長谷川昭次郎文庫」として子供達に贈ることにした。
これで私も、いつお迎えがきても心残りがないので安心している。                           了

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