(長谷川昭次郎さんの投稿)
教務事務におけるエピソードについて 2021.5.28 長谷川昭次郎
私は大阪大学の事務職員として40年にわたり従事してきが、庶務系の仕事が主であり管理職になって教務・経理の総括はしていても、直接学生と関わりを持つことはほとんどなかった。ただ二三若い頃に初めて掛長に昇任して一般教養部北校の庶務掛長兼教務掛長の2年間と、また事務局庶務課の教務掛長として入学試験事務の直接責任者であった頃に、今も忘れ難く印象深い経験をしたので、そのことを書くことにしました、若かりし頃のエピソードとしてご笑覧ください。
○私は大阪大学の事務職員として40年にわたり従事してきたが、庶務系の仕事が主であり管理職になって教務・経理の総括はしていても、直接学生と関わりを持つことはほとんどなかった。ただ二三若い頃に初めて掛長に昇任して一般教養部北校の庶務掛長兼教務掛長の2年間と、また事務局庶務課の教務掛長として入学試験事務の直接責任者であった頃に、今も忘れ難く印象深い経験をしたので、そのことを書くことにしました、若かりし頃のエピソードとしてご笑覧ください。
◯その1 学生を助けて、わが家にも福が舞い込んだ
昭和31年4月、北校教務掛長となり1年目の学年末。期末試験が終わって各教官から成績と取得単位の報告が出される。
当時一般教養部では、各学部の入学者を受け入れ2年間の一般教育をして、当該学部学科の必修科目と単位を取得しないことには、その学部に進学させない鉄則があった。したがって1単位でも不足すると留年であり、よって救済のために追加試験が行われてかなりの学生が単位をもらって救われていた。
ところがたまたまある学生は、期末試験がうまくできて進学間違いないと思い込み、追加試験の張り紙を見ていないらしい。申し出でがないことに教務の女性が気付き、宿舎に連絡とったところ手答えがない、友人に確かめたところスキーの合宿に出て行ったのこと。追加試験日も3日後に控えていると私にそのことを告げにきた。よく聞いてみると1単位だけの不足。下手をすると留年になりかねないので心配とのことである。実家に電話してあげてはと電話を掛けてもらったが応答なし。たった1単位のことで留年とは誠に惜しい、そこで私が引き継ぎ、夜家から連絡つくまで電話をするかと安心させた。
夜8時に電話をしても不通、それではと10時半頃再度してやっと通じ、お母さんに事情を知らせると吃驚され、親戚の家に行っていたとのこと。「早速子供の行き先を探し試験に間に合うようにします」と、オロオロ声であった。ここまでして試験に間に合わなければやむを得んと残念であった。
急ぎ当日間に合い、追試験を受け単位をもらえたと教務に届けにきた。彼女もほっとして私のところに本人を連れてくる。私も嬉しくなって学生の手を強く握りしめ「良かったね!お母さんはきっと喜ばれるよ」と3人で喜んだのである。
教務の者がここまで親切にしているのは、就任した時に新入学生が事務室にきて、私達に先生先生とまとい付き、履修科目・単位のことを聞いてくるので,掛員も弟や妹のように親身になって面倒みているのだと感心した。
1週間過ぎた日曜日に、そのお母さんがわが家を訪ねてこられた。部屋に上がってもらい家内と一緒にお話しを聞くと、「主人は早くに亡くなり母1人息子1人の母子家庭で、昼は働き親戚にもお世話になっている、息子は医者になるんだと頑張ってくれ、喜んでいたところなんです。それにこんなことになるなんて」涙声で語られる言葉にこちらも同情し、進学できて本当に良かったですと、慰めてあげた。その学生も母の苦労が身に沁み、強く握られた痛みも忘れないで頑張ることを願ったのである。
その折に鳥取駅で買ってきたと立派な蒸松葉蟹をお土産にくださった。子供はまだ小さかったがさわって喜び、わが家に福が舞い込んだと大きな蟹をへし折って頂戴し、こんな嬉しいことはなかった。
◯その2 惜しいが我慢我慢、奥の手はわれにある
北校在職2年目の学年末に、期末試験が終わって工学部各学科の進学履修科目と取得単位が出そろい、進学資格のある学生の報告書を工学部長あてに送付し後。数日たって某教官から追加試験で1人単位が取得でき進学できる学生が出たと言ってこられた。
その頃は既に工学部では卒業生・進学生の判定資料が作成されて教授会待ちで、ホットされている頃である。そんな時に追加報告とは工学部は何という
だろうか?馬鹿げた話だとカンカンになって怒るだろうな。しかし1人でも追加進学を受け入れて貰わないといけないので、事務長と北校主事に事情を話し急遽書類を作成して決済を貰った。掛員もおろおろ心配している。こうなれば私の出番である、掛員には「心配しないで任せておきなさい」そうは言ったものの私も困ったことである。工学部は大学部であり窓口の庶務掛長も年配者、事務長が行くならばまだしも、若造の新米掛長がノコノコ行って書類を受け取るだろうか?車の中であれこれ思案したが名案が浮かばない。もうこうなったら相手の出方次第だと腹を決めた。
話を始めると、大雷が一発落ちてきた。「なんだ追加だと!今頃そんな話をよくも持ち込んだものだ!教授会に合わせて卒業生・進学生の判定書類が出来上がりホットしているんだぞ!」掛員の手前もあり、それからは工学部の大所帯、教官の数、学生・大学院生等の世話がどんなものか!と、一般教養部との違いを散々聞かされる。こちらは怒られるのは百も承知なので、とにかく書類を受けてとって欲しいとただただ懇願するのみである。教官の提出が遅れたなど言い訳すれば、それは事務の不注意だと叱られるに決まっている。辛抱辛抱我慢我慢。まるで姑に嫁いじめされているようである。
あまりにもくどいので辟易し、ハッと奥の手が思いついた「工学部は一般教養部をどう見ておられるのですか?私達は新入り学生の里親ですよ、成長して遅れても1人追加を親元に送って来たのに、その里子を拒むのですか?それならこの報告書は工学部長宛のものです。使者の私が直接工学部長に手渡します!よろしいですね!」こう切り出せば掛長はどんな顔をするか、これは面白いと真剣になってきた。
私の異様な顔を見ておられた隣の教務掛長が、これ以上言い募ると不味いことになりそうだと思われて仲裁に入られ「もうこのくらいにしては、早く書類を受け取り判定書類を書き直しましょうよ」と言ってくださって、本人も言い過ぎたことを反省されたように、ぶつぶつ言って受け取って貰えた。
北校に帰えると余りにも時が過ぎて心配している様子なので「長い説教を食らったが、書類は受け取ってもらったから安心しなさい。教官にはくれぐれも注意しておきなさい」と言い添え、これで一見落着。奥の手が出せなかったのが残念ではあるが、やれやれ安堵したのである。
◯その3 負けてたまるか!事務の根性ここにあり
昭和の頃の大阪大学の入学試験事務は庶務課の教務掛が担当で、東北大学も同様であった。
昭和42年4月に庶務課教務掛長となり、44年3月初旬に44年度の入学試験が無事に終わり、答案の採点が大・中・小の会議室で行われている。そのうち理科の選択科目の一部が終了し、教務掛長の私が採点表を受け取る時に、その科目責任者の認印がないことに気が付いた。その某先生に捺印を促したところどう受け取ったのか、「なに捺印だと?」と反発された。「責任者の認印がないと受けとれませんので捺印してください」と事務に注意されたことに腹を立てたのか「なんだ偉そうに!」と、教授のメンツを笠に着た言い方をされた。「先生もそのことはご存じでしょ?「印鑑を持ってこられなかったのですか?」この質問がまた一層火に油を注いだかのように、「それが教授に言うことか生意気な!」ときた。
そして「お前のことを総長に言い付けるぞ!」まるで私に謝れと言わんばかりの言い様である。こうなったらこっちも入試事務に真剣なので引き下がれない。それにこの先生は工学部で先生先生と言われ事務を見下しているのか?と、カチンときて腹が立ち。それなら芝居ではないが、長崎の敵は江戸で討ってやろうではないか!子供の頃のわんぱく根性に火がついた。「どうぞ!どうぞ!入試運営委員長の総長は今部屋に居られます、直ぐ言い付けに行ってください!私は総長の命令で入試事務の直接責任者として務めているのです、どうぞ!早く行ってください」。
もうこうなれば喧嘩の構え。採点室に居られた委員の方々が一斉に目を向けてこられた。私も皆さんにいい機会だから聞いてもらおうと声高になっていた。するとさすがに人の目を気にされたのかぶつぶつ言いながらついに捺印された。認印さえもらえば私も言うことがないので「有難うございます」と一応礼は言っておいたのである。
それから庶務課長補佐を経て52年4月に工学部の教務課長に就任し、各学科の教授の方々に挨拶回りをしたが、その先生に会ってどうなるかなと多少不安であり、嫌味を言われ仕返しでもされるようであれば、事務室に帰って当時のことを皆に喋ってやれと度胸を据えた。
そうしてありきたりの挨拶をした。その教授も顔を覚えておられたので苦笑しながら「よろしく」と受けてくださった。私も同様に苦笑いを返した。それからは毎月の教授会で顔を合わせたが、特に話をすることもなく無事に経過したので、やれやれと胸をなでおろしたのである。
◯あとがき
それからは工学部に2年在職して、後は3部局を異動して回り62年3月に無事定年退職。財団法人に5年お世話になる。今はお伴のパソコンで落書、アイホンで情報収集。吹矢とお医者様にも仲良ししてもらう。そして免許不要の歩行器を操り、ふらふら歩きの影の薄い気楽で暢気な浪人暮らしです。
また新型コロナワクチン接種も5月19日に1回目を終え、次の2回目は6月9日その逢瀬を楽しみにするいじらしい爺ちゃんです